平島
2007/9 |
若宮地
2007/10 |
野中
2007/11 |
飯沼勘平長資の墓
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白山神社のクロガネモチ
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エノキとお囲い堤
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岐南町の東端にあり、北は岐阜市、東は各務原市、南は笠松町と隣接している。
この地は昔、木曽川の本流の中にあったが、土砂の堆積により中州ができ、稗が生えた島になった。そこに集落ができ、稗島からなまって平島という地名になったとされる。 |
岐南町の東南部に位置し、東および南は笠松町と接している。
木曽川船運の盛んな地域に隣接していたため、人の乗り降りが盛んで旅人の往来も多く小さな村だが人の出会いと別れや村境を意味する「若宮地」という名がつけられたとされる。また語源的解釈としては@村境に祀った道祖神に因んだ地名A本宮の祭神の子(若)にあたる神を祀った神社がある土地の意味でもある。
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町の東部に位置し、南の一部は笠松町に接している。天正14年(1586年)の大洪水の前は、木曽川の中にあったが、洪水後は沼地となった。それで沼地の語源である「ぬなり」→「ヌナカ」→「野中」と呼ばれるようになったとされる。 野中は尾張藩給人成瀬家の領地であったため、洪水から村を守るためのお囲い堤が作られ、現在は町指定文化財となっている |
伏屋
2007/12 |
三宅
2008/1 |
上印食
2008/2 |
伏屋獅子舞会館
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豊松清十郎の墓
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生島神社のエノキ
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伏屋は、岐南町の中ほどに位置し、南は笠松町と接している。
平安時代は、船着場で川の駅であり、物を運ぶ馬を休ませる牧場があったため牧間村と呼ばれていた。そこには浮橋がかけられ、人が休んだり泊まったりする布施屋(無料宿泊所)が作られていったと考えられる。
「新撰美濃誌」では、布施屋があったため、伏屋と地名が変化していったといわれる。
また、「伏屋長者誌」では、財力のあった伏屋氏が村を買い取り、長者として土豪となりお布施の地であったことから伏屋村が生まれたともいわれる |
岐南町の北東部に位置し、北部は境川を隔てて岐阜市に接する。
やまと政権の7世紀、推古天皇の頃、三宅には穀物を収納する倉庫「屯倉」(みやけ)があり、それは又、宮家、御宅とも書かれ大切な田があったことになる。江戸時代には三つの力のある一族に支配されていたので「三宅」(三家)と呼ばれたそうである。 「古老のはなし」
天保年間(1830〜1844)三宅では、豊松清十郎が創始したといわれる「三宅文楽」が盛んに行われた。 |
岐南町の北部に位置し、北は境川をはさんで岐阜市南部と接している。
印食は中世までの地名であり、食とも呼ばれた。近世になり、新田開発や人口増加により、上印食と下印食に分かれた。
この付近は、”食の渡し”と呼ばれる交通の要所があり、合戦の場にもなった。
語源的解釈としても、印地と食で印食。印は印地であり、陣地の印の線が勝負事で一進一退する地(戦いの地)であったことを表している。 |
下印食
2008/3 |
徳田
2008/4 |
薬師寺
2008/5 |
池田輝政鎧かけ松
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江月寺山門 (徳田6)
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鞍掛神社 (薬師寺5)
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岐南町の西北部に位置し、北、西は境川を境にして岐阜市と接する。
承久記によると、この頃から「食(志貴)」と呼ばれた地名があったことが分かる。近世になり、上と下に分かれたが、上印食の方が本郷であるとされ、集落の発達が上から出発したことが考えられる。
みやまちの八剣神社には、社殿北側に「池田輝政よろいかけの松」があり、関ケ原合戦の前、岐阜城の西軍、織田秀信を攻める時、徳田村の人々に囲いを築かせた記録がある。
この地区は、平成元年ごろから、町名町界整備事業により、八剣北、八剣、みやまち、下印食に分かれた。 |
徳田は境川によって作られた自然堤防が印食村から南北にかけて帯状に延びて形成された村で、西は境川をはさんで岐阜市と接し、南は笠松町や薬師寺と接している。
江戸時代、徳田村は田畑の冠水がひどく、堤のかわりに大跡道と呼ばれる高道を作っていた。しかし、それが原因で他の村々は水害に襲われるため、たびたび紛争がおきていたことが古文書から伺われる。
また徳田には代々「高見五左衛門」と名のり地域の人に大家と呼ばれた人がいた。明治時代、「五左さ」と呼ばれた高見五左衛門は髪を伸ばした豪傑で、境川の改修や牛の共同飼育、イチゴ農園を考案し「徳田ねぎ」を開発した。「徳田ねぎ」は現在、岐阜県の飛騨・美濃伝統野菜に認証されている。 |
岐南町の南部に位置し、東西には笠松町が接し、南には木曽川が流れている。河川敷には薬師寺の飛地がある。
この地は往古薬師堂があったが、戦国時代に仏閣を毀されたことから民家で寺号を採ってゆえに村名となったとされる。
また、北方村(愛知県一宮市)と薬師寺村の間には三町ほどの大きな池があって木曽川はなく地続きであったが、天正14年の洪水で村里が崩れ大河となり、それが今の木曽川である。と「尾濃葉栗見聞集」に記されている。 |